色とりどりの糸を手動の道具で組み上げて生まれる「組紐」は、和装の時代の必需品。正絹で組まれた組紐は、帯締めや羽織紐などお洒落の見せどころの地位を得ていたが、洋装の現代においては分が悪い。奥田禄郎さんは組紐の世界に入って60余年、今も現役で組紐の製造と卸業を営み続ける。柄や色の組合せから生まれる美しさは日本人の美意識そのもの。和装小物のほかの利用法を模索したい、失いたくない伝統工芸である。
――どうしてこの世界に入られたのでしょう。
「わたしが大学生だった頃、夏休みに近所の組紐屋さんの『元木屋』の社長から、集金でもいいから手伝ってと頼まれたんです。わたしの親父は元相撲取りで、家業は組紐と全く関係なかったのですが、アルバイトしていた時の様子が気に入られたんですかね。『卒業したらうちに入ってくれ』と社長に頼み込まれて、親父がウンと言っちゃった(笑)。入社してしばらくは問屋と組紐職人たちの間を仲介する仕事でした。職人は若くて55歳、上は80歳、当然わたしを認めてなんてくれません。それでも何べんも東京近郊から関西まで通ううちに、だんだんいろいろと話をしてくれるようになって、見よう見まねで自分でも組めるようになりました」
――組紐のおもな用途は、和装小物ですね?
「はい。組紐屋の中でも、店によって得意分野が分かれているんですね。うちは帯締めも少しやりますが、ほとんどは羽織紐が専門です。今でこそ羽織を着る人は少ないですが、昭和10年頃、羽織紐は日常の消耗品でした。よく切れたので、それこそ町の煙草屋さんでも安い化繊の羽織紐が売っていたそうです。私が入社した頃はもう正絹の高級和装物が主流で、『元木屋に行けば面白いものが手に入る』と、業界ではちょっと知られた存在でした」
――若くして元木屋を独立をされたのですね。
「社長が病気で亡くなってしまったんです。ご遺族が『残っている商品を売らないことにはこのまま潰せない。ちょっと奥田にやらせよう』っていうことで、思いがけず引き継ぐかたちになりました」
――ご苦労はありませんでしたか?
「多少はありましたけど、商品がとにかくよく売れてくれましたから。和装の時代はとうに終わっていましたが、娘さんがお嫁に行くときには着物や羽織を一式、嫁入り道具として持たせる習慣がありましたから、注文はどんどん入りました」
――奥田商店が得意とする組紐は?
「江戸らしい渋いわびさびの効いた色合いの組紐です。とくに男物の『無双』と呼ばれる太い組紐は得意ですね。紐の真ん中に砂金石や象牙のビーズを通します」
――京都の組紐と、江戸組紐は特長に違いがあるのでしょうか。
「組む道具に違いはありませんが、色や柄に特長がありますね。江戸組紐のほうが渋くて、わびさびが効いた色合いに仕上げることが多い。柄ははっきりとしたものが好まれますね。業界の人間なら『これは江戸らしい色だね』『こっちは関西っぽいね』とひと目で分かります」
――出来がよい組紐と悪い組紐は、どこが違うのでしょう。
「熟練の職人が組んだ組紐は、結んだときに結び目がほどけにくいし、ほどいたときもぐだぐだにならない。いつもピシッと目が締まっています」
――今、販売はどちらで?
「和装小物や組紐の問屋さん経由で、呉服店や百貨店に卸されます。東京には二軒だけ、組紐専門の問屋さんが残っています」
――組紐を組める人は、現在もたくさんいらっしゃるのでしょうか。
「いませんね。趣味でやる人はいますが、商売では、私のところの関係者は千葉に1軒、埼玉の岩槻と東京に3、4軒ずつ残っています。全国でみると京都、大阪、大津、伊賀に残っていて、名古屋には数軒でしょうか。不思議なもので、昔はごく普通に組まれていた技術ほど、今は出来る職人が少なくなっています。羽織紐の根元の部分の処理は、昔は一番工賃が安い技術でしたが、今はできる人がいませんね。かえって難しい柄のほうが必死で残そうとするらしくて、できる人が残っています」
――奥田商店の後継者は?
「息子がやっています。腕はもうわたしよりよっぽど上でしょう。和装がもうこういう時代ですから、組紐は和装の世界だけでは生き残れません。なんとか他の使い方を見出して、この技術を残していきたいと思っています。絹糸の色の美しさ、柄の面白さ。日本が生み出した素晴らしい文化ですから」
写真:岡村靖子 構成:宮坂敦子
――どうしてこの世界に入られたのでしょう。
「わたしが大学生だった頃、夏休みに近所の組紐屋さんの『元木屋』の社長から、集金でもいいから手伝ってと頼まれたんです。わたしの親父は元相撲取りで、家業は組紐と全く関係なかったのですが、アルバイトしていた時の様子が気に入られたんですかね。『卒業したらうちに入ってくれ』と社長に頼み込まれて、親父がウンと言っちゃった(笑)。入社してしばらくは問屋と組紐職人たちの間を仲介する仕事でした。職人は若くて55歳、上は80歳、当然わたしを認めてなんてくれません。それでも何べんも東京近郊から関西まで通ううちに、だんだんいろいろと話をしてくれるようになって、見よう見まねで自分でも組めるようになりました」
――組紐のおもな用途は、和装小物ですね?
「はい。組紐屋の中でも、店によって得意分野が分かれているんですね。うちは帯締めも少しやりますが、ほとんどは羽織紐が専門です。今でこそ羽織を着る人は少ないですが、昭和10年頃、羽織紐は日常の消耗品でした。よく切れたので、それこそ町の煙草屋さんでも安い化繊の羽織紐が売っていたそうです。私が入社した頃はもう正絹の高級和装物が主流で、『元木屋に行けば面白いものが手に入る』と、業界ではちょっと知られた存在でした」
――若くして元木屋を独立をされたのですね。
「社長が病気で亡くなってしまったんです。ご遺族が『残っている商品を売らないことにはこのまま潰せない。ちょっと奥田にやらせよう』っていうことで、思いがけず引き継ぐかたちになりました」
――ご苦労はありませんでしたか?
「多少はありましたけど、商品がとにかくよく売れてくれましたから。和装の時代はとうに終わっていましたが、娘さんがお嫁に行くときには着物や羽織を一式、嫁入り道具として持たせる習慣がありましたから、注文はどんどん入りました」
――奥田商店が得意とする組紐は?
「江戸らしい渋いわびさびの効いた色合いの組紐です。とくに男物の『無双』と呼ばれる太い組紐は得意ですね。紐の真ん中に砂金石や象牙のビーズを通します」
――京都の組紐と、江戸組紐は特長に違いがあるのでしょうか。
「組む道具に違いはありませんが、色や柄に特長がありますね。江戸組紐のほうが渋くて、わびさびが効いた色合いに仕上げることが多い。柄ははっきりとしたものが好まれますね。業界の人間なら『これは江戸らしい色だね』『こっちは関西っぽいね』とひと目で分かります」
――出来がよい組紐と悪い組紐は、どこが違うのでしょう。
「熟練の職人が組んだ組紐は、結んだときに結び目がほどけにくいし、ほどいたときもぐだぐだにならない。いつもピシッと目が締まっています」
――今、販売はどちらで?
「和装小物や組紐の問屋さん経由で、呉服店や百貨店に卸されます。東京には二軒だけ、組紐専門の問屋さんが残っています」
――組紐を組める人は、現在もたくさんいらっしゃるのでしょうか。
「いませんね。趣味でやる人はいますが、商売では、私のところの関係者は千葉に1軒、埼玉の岩槻と東京に3、4軒ずつ残っています。全国でみると京都、大阪、大津、伊賀に残っていて、名古屋には数軒でしょうか。不思議なもので、昔はごく普通に組まれていた技術ほど、今は出来る職人が少なくなっています。羽織紐の根元の部分の処理は、昔は一番工賃が安い技術でしたが、今はできる人がいませんね。かえって難しい柄のほうが必死で残そうとするらしくて、できる人が残っています」
――奥田商店の後継者は?
「息子がやっています。腕はもうわたしよりよっぽど上でしょう。和装がもうこういう時代ですから、組紐は和装の世界だけでは生き残れません。なんとか他の使い方を見出して、この技術を残していきたいと思っています。絹糸の色の美しさ、柄の面白さ。日本が生み出した素晴らしい文化ですから」
写真:岡村靖子 構成:宮坂敦子
奥田 禄朗(おくだ・ろくろう)/
昭和29年 元木俊之助商店にて営業の手伝いをする
昭和30年 元木俊之助商店に入店
昭和32年 元木俊之助氏死亡。昭和32年から昭和34年の間、店を守る
昭和35年 元木商店廃業
(株)元木屋奥田商店創業。独立して男物紐、女物羽織紐に力を入れお得意様に愛されて参りました。
現在は、江戸川伝統工芸保存会会員として、区内のイベントにて帯締他、色々な小物を出店しております。
昭和29年 元木俊之助商店にて営業の手伝いをする
昭和30年 元木俊之助商店に入店
昭和32年 元木俊之助氏死亡。昭和32年から昭和34年の間、店を守る
昭和35年 元木商店廃業
(株)元木屋奥田商店創業。独立して男物紐、女物羽織紐に力を入れお得意様に愛されて参りました。
現在は、江戸川伝統工芸保存会会員として、区内のイベントにて帯締他、色々な小物を出店しております。
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